逢恋がなぜ数字が好きになったのか人生談話
注)これはかなり個人的な数字への感情とインスピレーションに寄ります。
第1話
数字との出会いなんて普通だった。
どうやってなんて正確に思いだせない、だって凄く昔の話。
2才から公文式に通っていたから、たぶんそこで習っただろう。
幼稚園児にしては計算とか出来る方。
でも、漢字が書けることの方が誇らしかった。
子どもってそんなものじゃん。
だから小学生になってからは算数は出来るからどうでもよかった。
1年とか分かるとなんか幼稚な気がしない?
でも、この時からある数字と繋がり始めたの。
幼稚園での桜組とかぞう組とかそんな名前が、小学校で3クラスでは1年3組になった。3組は運動会だと赤白帽じゃなくて青帽が貸してもらえた。
毎回クラス分けがあるのに、3年まで3組だった。
そんな小さなことでも小さい私にとってみればわくわくすることで、記憶が正しければこの時私は3が特別になった。
今の私の始まりはこんな些細なこと。
でもそれが広がっていくにはたくさんの偶然や気付きがあったのだ。
2012.7.5
第2話
4年目にしてついに3組じゃなくなってしまった私。
この頃、公文式にも息詰まり辞めてしまいました。
やらないと忘れるというのは確かなもので、どんどん漢字が書けなくなる。
ドリルのテストでカンニングしたくなるくらい初めて覚える辛さを感じました。
でも変わらないものがあった。
それが算数。
土台がしっかりしていたし、抽象化する内容の中で出来ることが自信にも繋がった。
新しい出会いとして、倍数の概念があった。
3の倍数では全ての桁の数を足しても3の倍数になる。
これほどすっきりした美しさはまだなくて、ここから数学的にも愛が芽生え始める。
自主勉での受験勉強も算数は楽しかった。
このときほど問題が解けることが有意義に思えた日々はない。
学校の授業もレベル別で先生に構ってもらえるし、塾では自分が分からない問題を先生が考えている間に、他の分からない子を私が教える。
プライドも育ったし、分かったって言ってもらえる教える幸せを感じ始めた。
そんな小学生生活が実は今の私の基盤。
市立の平凡な子どもが数学科に入ることになった生活。
子どもっぽいけど凄く幸せな日々でした。
2012.7.9
3~5はまた更新します
第6話目くらい(いきなり途中からSTARTのため前ふり有)
といった訳で3の倍数の関係性こそが私に心地よい具合なのである。
それはきっと偶然から始まった。
もしかしたら運命だったのかもしれない。
神から授けられたのかもしれない。
いつしかそれは愛へと変わる。
育んできた愛は尽きることのない愛になる。
そしてついに思ってしまったのだ。
いつか3のようになりたいと。
さて、では現在の私とは一体いくつなのであろうか。
それは年齢ではなく、私自身のすべてである。
小さい数字でふと浮かんだのが15
正確な数値など言えないが、確かに私は今現在3ではない。
しかしながら、この21年間に私は3を手に入れているような気がする。
手に入れているという表現ではあらわせられないが、私の一部だと感じるのだ。
私の中に3が存在しているからこそこうして私は3を口に出して表現している。
だけど私は3ではない。
3の仲間であるのだ。
因子の中に3がある、それだけで中身は混沌としている。
混沌について考えてみる。
ネガティブに受け止めれば、それは不純物である。
3になりきれない部分があると受け止めてもいい。
しかしこれをポジティブに考えれば、私の中に他の数字達が生きていることになる。
それこそ5であったり、それぞれの個性を私は持っていることになる。
では、真の3とはなんであろうか。
全ての数字と共にあることか?
そうすれば、全ての素数を含むことになり無限の存在になる。
その大きな存在を私は見ることなど出来ない。
それはもし間違って1ずれてしまったならその全ては水の泡になる、そう目に見えない恐怖と隣り合わせであり、宇宙そのものかもしれない。
ならばやはり林檎が3個ある状態。
そう素数として存在して、自然数として3つめの3がよいのだ。
目に見えるものが全てではないと分かっているけれど、その実態を少しは手にしていたいそんな欲求かも知れない。
この旅路を終えて、やはり3がいかに美しいか、その素朴さが重要なのか考えることが出来た。
だが間違えたくないことは、これは信仰などではなく愛だということ。
過剰であってはいけない。
平らに。
少しずつ。
最終目標として、3に近づいていければいいのだ。
2011.10.3